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めいじんじごく
名人地獄
国枝 史郎
「サンデー毎日」1925(大正14)年7月5日~10月25日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 149,286 字 · 301 页
その足の先に月の光が、幽かに青く這い上っていた。かじかの啼く音が手近に聞こえ、稲葉を渡って来た香ばしい風が、莚戸の裾をゆるがせた。高原、七月、静かな夕、螢が草の間に光っていた。
「お前の様子が苦になって、思い切っておいらは行き兼るのだ」甚内は口説くようにいい出した。
「でもおいらは近々に行くよ。海がおいらを呼んでいるからな……おいらには山は不向きなのだ。どっちをむいても鼻を突きそうな、この追分はおれには向かねえ。小さい時からそうだった、海がおいらの情婦だった。おれは夢にさえ見たものだ。ああ今だって夢に見るよ。山の風より海の風だ。力一杯働いて見てえ! そうだよ帆綱を握ってな。……もう直きにお前ともおさらばだ。ああ、だが本当に気が揉めるなあ」
フラリと甚内は出て行った。
顔を上げて見ようともせず、なお甚三は黙然と、下俯向いて考えていたが、その時またも清涼とした鼓の音が聞こえて来た。
「ああいいなあ」といいながら、ムックリ顔を上げたかと思うと、体も一緒に立ち上がった。「唄い負かすか負かされるか、かなわぬまでも競って見よう。よし! そうだ!」と厩舎へ走り、グイとませぼうをひっ外すと、飼い馬を元気よくひき出した。