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めいじんじごく
名人地獄
国枝 史郎
「サンデー毎日」1925(大正14)年7月5日~10月25日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 149,286 字 · 301 页
宿の外れに立っているのは、有名な桝形の茶屋であったがそこの雨戸も鎖ざされていた。そこを右すれば中仙道、また左すれば北国街道で、石標の立った分岐点を、二人の兄弟は右に取り、中仙道を歩ませた。宿を出ると峠道で、朝陽出ぬ間の露の玉が木にも草にも置かれていた。夜明け前の暁風に、はためく物は芒の穂で、行くなと招いているようであった。
「せめて関所の茶屋までも」と、甚三の好きな追分節の、その関所の前まで来ると、二人は無言で佇んだ。「あにき、お願いだ、唄ってくれ」「おいらは今日は悲しくて、どうにも声が出そうもねえ」「そういわずと唄ってくれ、今日別れていつ会うやら、いつまた歌が聞けるやら、こいつを思うと寂しくてならぬ。別れの歌だ唄ってくれ」
「うん」というと甚三は、声張り上げて唄い出した。草茫々たる碓井峠、彼方に関所が立っていた。眼の下を見れば山脈で、故郷の追分も見え解ぬ。朝陽は高く空に昇り、きょうも一日晴天だと、空にも地にも鳥が啼き、草蒸れの高い日であったが、甚三の唄う追分は、いつもほどには精彩がなく、咽ぶがような顫え声が、低く低く草を這い、風に攫われて消えて行った。