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しょうしょうしげもとのはは

少将滋幹の母

谷崎 潤一郎

「毎日新聞」毎日新聞社、1949(昭和24)年11月16日~1950(昭和25)年2月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 83,234 字 · 160 页

青空文庫

嘗て滋幹は幼少の折に、父の跡をつけて野路を行き、青白い月光の下で凄惨な場面を目撃したことがあったが、あれは秋の真夜中の鋭く冴えた月であって、今日のようなどんよりした、綿のように柔かく生暖かい月ではなかった。あの時の月は地上にある微細な極小物までも照らし出して、屍骸の膓にうごめいている蛆の一匹々々をも分明に識別させたのであったが、今宵の月はそこらにあるものを、たとえば糸のような清水の流れ、風もないのに散りかゝる桜の一片二片、山吹の花の黄色などを、あるがまゝに見せていながら、それらのすべてを幻燈の絵のようにぼうっとした線で縁取っていて、何か現実ばなれのした、蜃気楼のようにほんの一時空中に描き出された、眼をしばだゝくと消え失せてしまう世界のように感じさせる。………

そんな不思議な、特殊な明るさの中のことであるから、いつからそこにそう云うものがあったのか判然しないのであるが、やがて滋幹は全く思いがけない或るもの、―――何か白いふわ/\したものが、その桜の木の下でゆらめいているのに眼が留まった。一杯に花をつけた枝の一つが、ついその上あたりまで垂れ下っているので、最初はそれに見紛うて分りにくかったのであるが、花にしては餘りに大きく白いふわ/\したものは、或は彼が心つく前からそこにひらめいていたのかも知れなかった。