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まぼろしのかなた

幻の彼方

豊島 与志雄

「中央公論」1922(大正11)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 41,763 字 · 84 页

青空文庫

「散歩に行ってくる。」

云い捨てて置いて、袖からつき込んだ左手でぐっと腹を押えながら、わざとゆっくり構え込んだ。金入を懐にし、煙草を袂に入れ、外套を着込み、帽子を被って、外に出た。

寒い夜だった。西の空に傾いてる月の面を掠めて、白い雲が空低くちぎれ飛んでいた。

彼は明るい大通の方へ歩いていった。風を捲き起して轟然と走り過ぎる電車の響と、何処までも続いてるレールの蒼白い輝きとが、夜更けの寒い街路に快かった。彼は真直ぐにそのレールに沿って歩み続けた。何もかも打忘れて大地の上に一人つっ立ってる気持だった。提灯をつけ大きな荷物を積んで通り過ぎた怪しい荷車が、その気持にぽつりと黒い影を落していった。

下らないことにこだわる必要はない!

それでも、寂しい町並に、一軒の閉め残った硝子器具店が、ぎらぎらした光りの乱射を投じてるのを見た時、彼はその中に石を投り込んでやりたくなった。石を拾うために屈もうとまでした。が、俄に馬鹿々々しくなった。彼はほっと大きく息をした。

やがて歩き疲れると、眼に止った相当のカフェーへはいった。五六人の客が居た。その方へ背中を向けて、ウイスキーやカクテールの杯をちびりちびりと嘗めた。