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あるおとこのしゅき

或る男の手記

豊島 与志雄

「中央公論」1924(大正13)年1月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 43,279 字 · 86 页

青空文庫

そして平素の陰鬱な窮屈な生活を遁れて自由なのびのびとした世界に出たような気がして、性質から境遇から凡ての点でその世界のものであり、その世界に我を忘れてる光子に対して、羨しいような小憎らしいような感情が起ってきた。

そして更に、その感情をなお刺激することが起った。私達は池を何周したか覚えていないが、日脚が益々傾いて、杉林の中や池の面に、ほろろ寒い靄影がこめかけてきた時、次第に私は空腹を覚えてきて、光子にそう云うと、彼女もやはり腹が空ききってると答えた。それでは栗飯でも食べて行こうかということになったが、私はふと気がついて、帰りが遅くなってはいけないだろうと注意してみた。

「構いませんわ。」と彼女は答えた。「私今晩は新宿の叔母の家に泊っていきます。」

私は喫驚して足を止めた。八月に彼女が私の家へやって来た時には、いきなり東京へ飛び出して来たものの、身寄りの者も知人もないし、上野駅前の宿屋に一晩泊ったが、何だか恐ろしくて仕方がないから……というような話だった。それから詳しい事情を――農科大学生との失恋や嫂との喧嘩などが重って、札幌の家に居られなくなった訳だの、何処かの家で働きながら昼間は絵を習いたいという志望など――いろいろ聞かされてるうちに、つい私も妻も同情をそそられて、暫く家に留めておくことにしたのだった。