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くわのきものがたり
桑の木物語
山本 周五郎
「キング」大日本雄辯會講談社、1949(昭和24)年11月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 39,815 字 · 79 页
「どうかなすったのですか、お躯のぐあいでも悪いのではございませんか」
あるとき悠二郎がそうきいてみた。正篤は不意におどかされでもしたように、ぎょっとした眼つきでこっちを見た。それから唇を歪めて笑い、頭を振りながら云った。
「いやなんでもない、――大丈夫だ、郷愁というのだろう、ときどき江戸へ帰りたくなる」
「はあ、それは、しかしそれだけでございますか」
「おまえ帰りたくないか」正篤はこう云って、脇のほうへ眼をそらした、「――江戸へ帰って、また舟仙へゆこう、みんな待っているだろう、今ごろおみつはなにをしているだろうな」
悠二郎は身につまされ、ほっとすると同時に、せっかく忘れようとしているものを思いださせられて、いやな心持になった。
これもそのじぶんのことだが、花田欣弥が靖献遺言の講義をすることになった。だいたい五十回ばかりの予定で始めたのであるが、第一日の講義を半刻ほど聴いたとき、とつぜん「ああ」という奇妙な呻きのような声をあげた。――悠二郎はとっさに眼をあげたが、正篤は蒼ざめ、いつもよりもっと鋭く眉をしかめ、一種の捉えがたい歪んだ表情になっているのを見た。