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さくらのみのじゅくするとき

桜の実の熟する時

島崎 藤村

「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页

青空文庫

どうせ田辺には逢う用があるし、大勝の大将から頼まれて来た言伝もあるし、俺は後から出掛ける」

「それじゃ、捨吉に連れてって貰わず」

とお母さんも言った。年はとっても、お母さんの身体はよく動いた。捨吉の見ている前で、髪をなでつけたり自分で織ったよそいきの羽織に着更えたりして、いそいそと仕度した。田辺の訪問はお母さんに取って無造作に済ませることでも無いらしかった。

お母さんのお供で捨吉は兄の下宿を出た。屋外は直ぐ大橋寄りの浜町の河岸だ。もう十月の末らしい隅田川を右にして、夏中よく泳ぎに来た水泳場の附近に沙魚釣の連中の集るのを見ながら、お母さんと二人並んで歩いて行くというだけでも、捨吉には別の心持を起させた。河岸の氷室について折れ曲ったところに、細い閑静な横町がある。そこは釣好きな田辺の小父さんが多忙しい中でも僅かな閑を見つけて、よく釣竿を提げて息抜きに通う道だ。捨吉は自分でも好きなその道を取って、田辺の家の方へお母さんを案内して行った。

田辺は全盛に向おうとする時であった。板塀越しに屋敷の外で聞いた井戸の水酌みの音まで威勢が好かった。小父さんが交際する大勝一族の御店の旦那衆をはじめ、芝居の替り日ごとに新番附を配りに来る茶屋の若い者のようなそういう人達までさかんに出入する門の戸を開けると、一方は玄関先の格子戸、一方