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さくらのみのじゅくするとき

桜の実の熟する時

島崎 藤村

「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页

青空文庫

何一つ捨吉はお母さんを悦ばせるようなことも言い得なかった。曽ては快活な少年であった彼が、身につけることを得意とした一切の流行の服装を脱ぎ捨て、旧の友達仲間からも離れ、どうしてそんなに独りで心を苦めるように成って行ったかということは、小父さんも知らなければ、兄ですら知らなかった。況して長いこと逢わずにいたお母さんが何事も知ろう筈が無かった。別れ際に、お母さんは物足らず思う顔付で、小父さん達の居る奥座敷から勝手の板の間を廻って、玄関に掲けてある額の下まで捨吉に随いて来たが、彼の方では唯素気なく別れを告げて来た。

しかしお母さんの言ったことは、殊に別れ際に、「月に一度ぐらいはお前も手紙を寄してくれよ」と言ったあのお母さんの言葉は捨吉の耳に残った。自分の頑なを、なおざりを、極端から極端へ飛んで行ってしまう自分の性質を羞じさせるような、何時にない柔かな心持が残った。

もともと田辺の小父さんは、旧い駅路の荒廃と共に住み慣れた故郷の森林を離れ、地方から家族を引連れて来て都会に運命を開拓しようとした旧士族の一人だ。小父さんの周囲にある人達で旧を守ろうとしたものは大抵凋落してしまった。