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さくらのみのじゅくするとき

桜の実の熟する時

島崎 藤村

「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页

青空文庫

八月に入って、小父さんは東京の方の問屋廻りを兼ね、脚気の気味だという寅どんを大勝の御店の方へ連れて行った。その帰りに、子息の弘を留守宅の方から連れて来た。弘と一緒に、小父さんは飼犬のポチをも連れて来た。人懐こい弘が伊勢崎屋の小僧達の中に混って働いている捨吉を見つけた時は、

「兄さん」

と言って、いきなり彼に齧りついた。

心の糧にも、しばらく捨吉は有付かなかった。身体のいそがしい小父さんに帳場を譲られてから、彼は真勢さんと交代で売揚を記入する役廻りに当ったが、あの品物を幾干で仕入れて幾干に売れば幾干儲かるというようなことに、ほとほと興味を有てなかった。帳場は櫓のように造られて、四本の柱の間にある小高い位置から店の入口の方まで見渡すことが出来た。生存の不思議さよ。あの学窓を離れて来る頃に、こうした帳場の前が彼を待受けようとはどうして予期し得られたろう。広々としたこの世の中へ出て行こうとする彼の心は、勢こんだ芽のようなものであったが、一歩踏出すか踏出さないに、まるで日に打たれた若葉のように萎れた。仮令僅かの暇でも、彼はそれを自分のものとして何か蘇生るような思をさせる時を欲しかった。