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さくらのみのじゅくするとき
桜の実の熟する時
島崎 藤村
「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页
偶然にも、ある機会が来た。丁度小父さんは留守だった。小父さんはお婆さんも独りで淋しかろうと言って、四五日横浜で遊ばせた弘を復た東京の方へ連れて戻った。ポチだけを残した。あの弘が黒い犬を随えながら、伊勢崎屋の店の内を、めずらしがる小僧達の間を、往ったり来たりする子供らしい姿はもう見られなかった。ふと、ある考えが捨吉の胸に来た。彼は内証で自分の風呂敷を解いた。そして姉さんにも誰にも知れないように、折があったら読むつもりで東京から持って来たテインの英文学史を帳場の机の下に潜ませた。
「へえ、十六銭の箸箱が一つ」
帳場の側へ来て銭を置いて行く小僧がある。よし来たとばかりに捨吉はそれを帳面につけて置いて、やがてこッそりと机の下の書籍を取出して見た。
しばらく好きな書籍の顔も見ずに暮していた捨吉の饑えた心は、まるで水を吸う乾いた瓶のようにその書籍の中へ浸みて行った。何という美しい知識が、何という豊富な観察が、何という驚くべき「生の批評」がそこにあったろう。捨吉はマアシュウ・アーノルドの「生の批評」と題した本を読んだことを思出して、その言葉を特にテインの文章に当嵌めて見たかった。