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さくらのみのじゅくするとき

桜の実の熟する時

島崎 藤村

「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页

青空文庫

その時、青木は捨吉に見せたいものが有ると言って、窓のある小部屋の方からナイトの注釈をしたシェクスピア全集を、幾冊かある大きな本を重そうに持って来た。欲しい欲しいと思って漸く横浜の方で探して来たとも言い、八円か出して手に入れたとも言うその古本を捨吉の前に置いた。それを置きながら、

「へえ、君が教えに行くとは面白い。随分若い先生が出来たものだね」

と、青木は戯れるように言って笑った。

小半日、青木は捨吉を引留めて、時には芸術や宗教を語り、時には苦しい世帯持の話をしたり、世に時めく人達の噂なぞもして、捨吉をして帰る時を忘れさせた。ある禅僧の語録で古本屋から見つけて来たという古本までも青木は取出して来て、それを捨吉に読んで聞かせた。青木は声を揚げて心ゆくばかり読んだ。

堅く閉塞がったような心持を胸の底に持った捨吉は、時には青木に随いて屋の外へ出て見た。どういう人が住んだ跡か、裏の方には僅かばかりの畠を造った地所もある。荒れるに任せたその土には早や頭を持上げる草の芽も見られる。

「ホラ、君が来てくれた高輪の家ねえ。あそこは細君に相談なしに引越しちゃった――あの時は酷く怒られたっけ」