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さくらのみのじゅくするとき

桜の実の熟する時

島崎 藤村

「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页

青空文庫

「青木君、山羊はどうしたね。麻布の家には山羊が二匹居たね」

「あの山羊じゃもうさんざんな目に逢った。山羊は失敗さ」

話し話し二人は家の周囲を歩いて見た。

「でも、一頃から見ると温暖に成ったね」

「もうこの谷へはさかんに鶯が来る」

枯々とした樹木の間から見える藪の多い浅い谷底の方はまだ冬の足迹をとどめていたが、谷の向うには、薄青く煙った空気を通して丘つづきの地勢を成した麻布の一部が霞むように望まれた。藪のかげではしきりに鶯の啼く声もした。春は近づいて来ていた。

耳の遠い、腰の曲った青木の親戚のお婆さんは夕飯を用意して捨吉を待受けていてくれた。味噌汁か何かの簡単な馳走でも、そこで味うものは楽しかった。

四月から始める新規な仕事、麹町の方にある吉本さんの学校のことなぞを胸に描きながら、捨吉はこの青木の住居を出て、田辺の家の方へ戻って行った。青木の許へ捨吉が齎して行った一身上の報告は田辺のお婆さんをも悦ばせた。独りで東京の留守宅を引受けるほどのお婆さんは、六畳の茶の間を勉強部屋として捨吉に宛行うほどのお婆さんは、最早捨吉を子供扱いにはしなかった。これから捨吉が教えに行こうとする麹町の学校は高輪の浅見先生の先の細君が礎を遺して死んだその形見の事業であるということなぞを聞取った後で、一語、お婆さんは捨吉の気に成るようなこと