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さくらのみのじゅくするとき

桜の実の熟する時

島崎 藤村

「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页

青空文庫

黒ずんだ琵琶湖の水が捨吉の眼前に展けて来た。大津の町に入った時は、寺々の勤行の鐘が湖水に響き伝わって来るような夕方であった。風の持って来る溶けやすい雪は、彼の頬にも、彼の足許にも、荷物を掛けた彼の肩にも来た。そこまで行くと、西京も最早遠くはないという気がした。何等かの東京の方の消息も聞けるかと、それを楽みにして、岡見から紹介された峰子という人を西京に訪ねて見ようと思っていた。

「まだ自分は踏出したばかりだ」

と彼は自分に言って見て、白い綿のようなやつがしきりに降って来る中を、あちこちと宿屋を探し廻った。足袋も、草鞋も濡れた。まだ若いさかりの彼の足は踏んで行く春の雪のために燃えた。