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さくらのみのじゅくするとき
桜の実の熟する時
島崎 藤村
「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页
避けよう避けようとして遂に避けられなかったあの瞬間の心の狼狽と、そして名状しがたい悲哀とは……あの品川の停車場手前から高輪の方へ通う細い人通りの少い抜け路、その路傍の草の色、まだ彼はありありとそれらのものを見ることが出来た。あの白い肩掛に身を包んで俯向き勝ちに乗って行った車上の人までもありありと見ることが出来た。あの一度親しくした年長の婦人が無言で通り過ぎて行った姿は、何を見るにも勝り何を聞くにも勝って、あだかも心の壁の画のように過去った日のはかなさ味気なさを深思せしめずには置かなかった。
夏期学校の開かれると云う日も近づいていた。かねてその噂のあった時分から、捨吉は心待ちにしていたが、暑中休暇で戻って来てからまだ間も無し、書生の身ではあり、自分もそこへ出席させて欲しいとは小父さんに願いかねていた。
ある日、捨吉は主人が独りで庭を歩いているのを見かけた。その側へ行ってこんな風に言出して見た。
「小父さん、僕は御願があります」
主人は、何かまた捨吉めが極りを始めたという顔付で、
「何だい。言って見ろや」
と笑って尋ねた。
その時、捨吉は自分の学校の方で特にその夏の催しのあること、すぐれた講演の開かれることを主人に話した。