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さくらのみのじゅくするとき
桜の実の熟する時
島崎 藤村
「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页
「どうせこんなものを造えたって着て出る時は無いなんて、あの時はお前もそう言ったっけ」
とお婆さんは思出したように言った。
「ほんとにねえ」と細君はまだ新しくてある単衣を膝の上に置いて見て、「これが着られるとは私も思わなかった……しかし私がいくら贅沢したって樽屋のおばさんの足許へも及ばない。あのおばさんと来たら、絽の夏帯を平素にしめてます」
細君はそれをお婆さんに聞かせるばかりでなく、捨吉にも聞かせるように言った。
「お婆さん、済みませんがあの手拭地の反物を一寸ここへ持って来て見て下さいな。捨さんにも持たして遣りましょう」
と細君に言われて、お婆さんは神棚の下の方から新しく染めた反物を持って来た。
「吾家ではこういうのを染めた」
とお婆さんは水浅黄の地に白く抜いた丸に田辺としたのを捨吉に指して見せた。気持の好い手拭地の反物が長くひろげられたのも夏座敷らしい。細君は鋏を引寄せて、自分でその反物をジョキジョキとやりながら、
「でも、よくしたものだ。前には『捨さん、お前さんの襟首は真黒だよ』って言っても、まだ垢が着いてた。それがこの節じゃ、是方から言わなくとも、ちゃんと自分で垢を落してる――それだけ違って来た」