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さくらのみのじゅくするとき

桜の実の熟する時

島崎 藤村

「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页

青空文庫

六

早くお母さんにお目に掛りにお出な」

とお婆さんは急き立てるように言った。

民助兄は大川端の下宿の方で、お母さんと一緒に岸本を待受けていてくれた。障子の嵌硝子を通して隅田川の見える二階座敷で、親子は実に何年振かの顔を合せた。

六

「お母さん、もう少しお休みなさい。まだ起きるには早うござんす」

と、兄は寝床から声を掛けた。

「あい」

と、お母さんも寝返りを打ちながら答えた。

早起の兄も、郷里の方から出て来たお母さんを休ませるために、床を離れずにいる様子であった。このお母さんと兄との側で、親子三人めずらしく枕を並べて寝た大川端の下宿の二階座敷で、捨吉も眼を覚ました。本所か深川の方の工場の笛が、あだかも眠から覚めかけようとする町々を呼び起すかのように、朝の空に鳴り響いた。捨吉は半分夢心地で、その音を聞いていた。過ぐる十年の長い月日の間、「お母さん」と呼んで見る機会も殆んど有たなかったその人の側で。その人の乳房を吸い、その人に抱かれて寝た少年の日も遠い昔の夢のように。

ややしばらくして、復た兄が言った。

「お母さん。もう少しお休みになったらどうです。昨夜はまたあんなに遅かったんですから」