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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

04 第四部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 145,078 字 · 285 页

青空文庫

それは過去から呼びかける声のような、極めて淡く、ほのかな、殆んど現実のものではないような匂いであったが、甲斐にはそれがなんであるか、ようやくわかったというようすで、静かに背をまっすぐにした。

「宇乃か」と甲斐が云った。

「はい」宇乃の答える声がした。

甲斐はそちらへ振返った。闇の中にぼうと白く、宇乃の単衣がにじんでみえた。

「どうしたのだ」

「お庭へ出ていらっしゃいましたので」

「起きていたのか」

「眠れませんでしたの」と宇乃は云った、「おじさまが寝ぐるしそうにしていらっしゃいますし、おばあさまのお手紙のことが気にかかって、どうしても眠ることができませんでしたの」

「私の寝ぐるしいのがどうしてわかる」

宇乃は答えなかった。甲斐も自分の問いが不必要だったことに気づいた。宇乃の寝所ははなれているが、どうしてわかるか、などと訊くことはなかったのだ。

「おじさま」と宇乃が囁いた、「おばあさまのお手紙は、悪いお知らせでございますか」

「いや、気にするほどのことではない」

「なにかまた、いやなことでも起こるのではございませんか」

「奥山大学のことだ」と甲斐が云った、「しかし宇乃にはかかわりのないことだし、宇乃が心配してもなんの役にも立たない、そんなことは気にしないでいいよ」