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もみノきはのこった
樅ノ木は残った
山本 周五郎
04 第四部
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 145,078 字 · 285 页
――甲斐が帰国していてくれたなら。
と七十郎は馬を駆りながら思った。
「すっかり明るくなった」と里見十左衛門が云った、「遠刈田が見えるぞ」
七十郎は眼をあげた。
右手向うに青麻山が、片側だけ際立って明るく、まだ眠りからさめていないような灰色の空に、ぬきんでて見えた。かれらは永野で馬を替え、槻木で乗り継ぎ、岩沼までいって宿を取った。
七十郎は饒舌になり、上方を遍歴した話しや、熊沢蕃山との交渉などを、元気な口ぶりで語り続けた。だが十左はすっかり黙りこんでしまい、気むずかしい顔つきで、自分からは口をきかず、ただ相槌を打つばかりだったが、岩沼で宿を取り、夜具を並べて横になってから、太息をついて、ぽつんと云った。
「おれは怯えている」
七十郎にはよく聞えなかった。夕食のときに飲んだ酒がきいて、躯にはまだ馬に乗っているような感じが残ってい、それが酔いをさそって、こころよく眠れそうになっていた。
「云いたくはないが」と十左はまた云った、「どうやらおれは怯えたような、悲しいような心持だ、こんなことは初めてだが」
「疲れているんだ」
「おれはどうやら、七十郎のあとに残るのが心ぼそいらしい、まるで女のくさったような、みじめな心持だ」