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ぎせいしゃ

犠牲者

平林 初之輔

「新青年」博文館、1926(大正15)年5月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 18,364 字 · 37 页

青空文庫

交番へ訴える必要はないと彼は判断した。第一これを人間が故意に彼に加えた行為であると断定する根拠は何もない。暴行者の顔を見たわけでもなければ声を聞いたわけでもない。まるで降って湧いたように頭をどやしつけられたというに過ぎないのだ。ことによると上から、瓦か或は枯枝か何かが、偶然彼の頭上へ落ちて来たのかも知れない。いずれにしても、何も証拠はないのだから、訴えたところで加害者のわかる気遣いはなし、加害者がわかったところで彼には何の利益もない。ただ、彼と同じように交替の時間が来て家へ帰れるのを待っているお巡りさんに無駄な手数をかけ、自分もたとえしばらくでも時間を空費するだけのことだ。しかも、若しこれが人間の所為ではなくて、偶然の天災であるとしたらどうだろう。大自然を交番に訴えて、人間に裁いてもらうなんて、考えただけでも滑稽ではないか?

とは言え、まるで先刻の不意の一撃が、今村の頭から歓喜の感情をすっかり追い出し、彼の身体から体温をすっかり奪ってしまったかのように、彼は身体じゅうにはげしい寒さを感じた。頭の中にはもう一片の空想も芽ぐむ余地がなかった。ことに局部の痛みと手さきの冷たさとは全身の調子をひどく不愉快にした。