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しほんたいへいき

私本太平記

吉川 英治

03 みなかみ帖

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 126,598 字 · 254 页

青空文庫

彼はふと、妻の小右京の手を思い出した。参内の朝には、かならず小右京の白い手が袴のヒモまで結んでくれた。その妻は、今朝をどうしているだろうか。

つと、小机の前へ寄って、俊基は懐紙に筆を走らせた。それを、宿の主にあずけて、何かの折にでも、これを妻の小右京へとどけてくれまいか、と言った。

懐紙には、一首の歌――

またさらに

住まばや住まん

うき草の

さそはれ出づる

なか川の水

と、染めてあった。

その間を、近所の路地のあちこちを見て走り戻ッて来た菊王は、はや牛車のそばに見えた俊基の姿へ、

「表には、何の異状も見えませぬ。いざお移りを」

と、うながして、すぐ牛車の手綱を把った。

牛車は、法成寺址の瓦礫やら、路地のぬかるみに揺られ揺られ、まもなく大路へ出て来た。鬱蒼たる宮苑(その頃二十余万坪)の森は、もうすぐ眉にせまって見える。

ところが、大路へ出たとたんに、どこかで「あっ?」という者があった。菊王がきっと振り向くと、具足した一人の男があわててほかの小路の横へ首を引っ込めた。――と思われたのも一瞬で、すぐまた四、五名の兵がわらわらと駈けあらわれ、

「その牛車待ッた」

と、轅をとりまいた。