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しほんたいへいき

私本太平記

吉川 英治

03 みなかみ帖

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 126,598 字 · 254 页

青空文庫

初瀬ざんげ

彼はもいちど、山門の空の遠くを見やった。この河内で橘の紋を用いている家は、楠木家しかないのである。

初瀬ざんげ

「ヤ、ヤ、ヤ。……笠よ、どこへ行く」

法師はあわてる。駈けまろぶ。笠は果てなく、ころころ山路の坂をころがって行く。

吉隠の峠下がりで、足を休めていた旅法師の、つい涼風に、うかとしていた間の不覚だった。

「悪戯な風め。笠返やせ」

谷底を覗いて、法師はやがて、ケラケラ笑い出していた。

ふとすれば、舞ッた笠を追ッて、勢い、谷へも飛びこみかねなかった浅ましい息ギレが、われながら貪欲なと、おかしくなって来たものらしい。

痩せッぽちで、小兵な体つきだった。顔も大きくない。頭もきれいに剃ってはいない。栗のイガだ。眼だけがするどい。

いや、鋭いといっては当らないようである。子供のように好奇にたいしてよく動く眸なのだ。また独り言が癖でもあろうか。今もぶつぶつ言いながらもう歩き出している。

「さて、笠なしはやりきれん」

汗拭きを出して、頭へのせた。ひょっと見、意地悪法師に思えもしたが、どことなく、依怙地の底に愛嬌みたいな楽天性のあることが、その態でも、うかがわれる。