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しほんたいへいき

私本太平記

吉川 英治

03 みなかみ帖

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 126,598 字 · 254 页

青空文庫

蝶の親

「……あっ?」

と、その際、俊基が旅衣を解きかけつつ、異様な声を発したので、菊王も、故なくぎょッとしていると、

「しまった」

と、くり返して。

「菊王、何としようぞ、知らぬこととはいえ、宵のうち、わしは心もどうかしていたのであろうか。……常に肌に持っている毒薬を、旅薬の苞と間違えて、そちの手から、あの雨露次の妻へ与えてしもうたらしい」

「げっ?」

「典医寮からくれた旅薬はこれにあるが、人知れず持っていた毒薬の方が肌にない」

「では、あれや毒薬だったのでございますか。そ、そんな物を、常にお持ちとは」

菊王も仰天した。

あんなにまで、涙を流してよろこんでいた雨露次の妻である。もう今頃は、服んでしまっているにちがいない。

良人の雨露次が帰って、いかに恨むことであろうか。二人は、慄然としたが、どうしようもない。ふいに耳をついた鉢ヶ峰寺の鐘の音に打たれて、二人とも蒼白な顔を鐘の行方に俯伏せた。二人の冷たい汗は、仏の名号をとおして、無意識の罪を、一念に詫びていた。

蝶の親

「またそろそろ腹をすかして、嬰児が乳をせがみ出す頃……」

野路をいそぐ男の胸に、そんな思いがたえずあった。