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しほんたいへいき

私本太平記

吉川 英治

03 みなかみ帖

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 126,598 字 · 254 页

青空文庫

「…………」

「わしも、女への供養に、恋のざんげを、恥もなくお物語りいたそうほどに、お夫婦も、なぜ日蔭者めかしゅう、こんなところに、うらぶれておわすのか、そこを、お打ち明けなされまいか」

兼好は、こういって、自分の出家の動機やら、女の思い出を、むしろ愉しげに、語り出した。

女は、中宮仕えの少弁ノ局といい、伊賀の権守橘ノ成忠の娘だった。

まだその頃、北面伺候の二十六、七の若武士にすぎなかった卜部兼好には、それが初恋だった。火となって、女の許へ通った。

女の父は、よろこばない。一北面の下などへ、嫁がす気はないのである。

宮を退げて、娘の身を、深草の辺に隠した。――が、その深草へも通いつめて、

衣打つ夜寒の袖や

しぼるらむ

あかつき露の

深草の里

などと、彼は自分を歌って、自分を哀しがった。

女の父は、狂恋の彼に、おぞ毛をふるッて、ついに娘を、自領の伊賀の田舎へ移してしまった。――兼好が北面を辞して、姿を消したのも、その直後である。

だが、ついに女とは、二度と会えなかった。悲観の余り、彼は幾年となく自暴の姿で、東国をさすらい歩いた。――再び召されて、後宇多の院御所にお仕えしたのは、十年もたった後であった。