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しほんたいへいき

私本太平記

吉川 英治

03 みなかみ帖

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 126,598 字 · 254 页

青空文庫

お分りだろう、これならば」

「ム、分った。かたじけない」

正季は、二人が帰ると、すぐ厩の方へ駈けて行った。

乾き切った山里道の登りを、正季の駒は、戛々と、喘いで行く。

道に沿う水分川に水音なく、農家も死んだ虫籠みたいに声さえしない。この一川を灌漑としていた川下数十ヵ村の田や畑も、すべて枯死を呈しかけていた。

「無慈悲な太陽……」

たまたま、気力のない百姓の男女が「……オオ、龍泉の御分家様よ」と、彼の姿へ身をかがめるのを見ても、正季は、彼らの眼に責められるような気がしていた。

「……おれには、雨を降らせる力がない」

ままになるなら、こんなときこそ、彼らの上へ、雨をも降らせてやれるのでなければ、ほんとの領主でない気がする。彼らの土下座をうける資格があろうかと、自問自答が起るのだった。

楠木家は。と、正季は考えてみる。

なにしろ古い。よほど遠い以前から土着した家とは、彼にも信じられる。

遠祖は、敏達天皇の裔、橘ノ諸兄からと、いわれているが、そんな遠くの血は、水分川の水上の滴りが知れないように、彼にも分らない。

しかし、橘を氏とし、橘を家の紋とし、源平争覇のころから、代々の楠木家の祖先が、よほどな粒々辛苦で、土豪の地位を、築いてきたものには、ちがいあるまい。