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どうてい

童貞

豊島 与志雄

「中央公論」1925(大正14)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 6,314 字 · 13 页

青空文庫

あなたのために随分待ちましたよ。」

それっきりだった。……母は何にも感づいてはいないんだな。

だが……天井からぶら下ってる電燈、茶箪笥や長火鉢、父の読み捨ての夕刊、それを丹念に読んでる母……昔からその通りで、そしてこれからも永遠に……。畜生、何もかも……。

「お母さん、」

「え。」

夕刊から振向いた母の眼が、嘗て見識らぬ愚鈍な者の眼付だった。

「僕は今日、素敵なものを見たんです。自動車と荷車と衝突して……。」

「そして。」

「正面からぶつかったんです。すると……荷車を引いた男の眼玉が、ぽんぽんと二つ共とび出しちゃって……。」

「え、何ですって。」

「夕刊に出てませんか。」

「夕刊にですか。」

その隙に、煙草を一本袂から探って、すぱすぱやってみたが、気のせいか、頬辺にやはり白粉の香がくっついていて、どうにも困った。

向うの室から、放笑しそうなのをじっとこらえた顔付で――眼付で、お千代が見ていた。そのぽっちりした赤い頬辺に、飛んでいってかじりついてやったら……母の眼の前で。

母の頸筋が、生え際が、薄ら寒そうに細そりとしていた。

何だかぎくりとした。その拍子に、トトントントン、トトントントン……指先で火鉢の縁をやけに叩いてやった。