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きくちよしょう
菊千代抄
山本 周五郎
「週刊朝日春季増刊」朝日新聞社、1950(昭和25)年4月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,178 字 · 72 页
「短刀を取って来て呉れ、それから……仕損じたかどうかも」
松尾が立ってゆくと、菊千代はなにげなく、いま清められた手を見ようとして、とつぜんぞっとし、身ぶるいをしながら眼をそむけた。その手が非常にいやらしく、穢れたもののように思えたのである。
松尾は戻って来て、囁くように云った。
「――おみごとに、あそばしました」
菊千代は脇へ向いて頷いた。
その翌日の午後に父が来た。菊千代は初めて父の怒った顔を見た。幼いじぶんから、怒ったらさぞ恐ろしいだろうとよく想像したものであるが、現に相対してみると決して恐ろしくはなかった。濃いいかり眉と大きな眼と口髭のある屹とした口許と……そのままで圧倒的な威厳に満ちているのが怒りのためにいっそう際立って、ふつうならとうてい眼をあげることはできなかったであろう。けれども菊千代はきわめて平静に父の眼を見あげた。父の怒りを凌ぐものが自分にはある。そういう気持であった。
「なぜ半三郎をせいばいした」
「――彼はわたくしを辱しめました」
「どのようにだ、どう辱しめたのだ」
「――申上げられません」
「たとえ家臣なりとも、人間一人手にかけて理由が云えぬでは済まぬぞ、どのように辱しめたか聞こう」