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きくちよしょう

菊千代抄

山本 周五郎

「週刊朝日春季増刊」朝日新聞社、1950(昭和25)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,178 字 · 72 页

青空文庫

いつか夫妻の云い諍っていた田はもう稲が刈り取られたあとで、刈り株がきれいに並びしきりに雀が落ち穂を啄んでいた。菊千代があのとき身を隠した灌木の茂みは、去年より丈も伸び枝をひろげて、その枝にまじって野茨の赤い実が美しく光ってみえた。……彼女はそこで立停って、しんとした刈田を眺めまわした。しっとりと柔らかく乾いた田の土、きれいに揃った刈り株、……そこに竹次やおいくや正太の姿が見えるようである。新しく肥えた五段歩の田を作り、冬には炭を焼いて、互いに劬り支えあって、三人で幸福に生きているであろう、今、現にかれらは三人で、いっしょに喜々と働いているに違いない。身も心もぴったりと倚り合った親子三人のむつまじい楽しげな姿、……菊千代はふと泣きたいような感情にさそわれ、無意識に口の中で呟いた。

「――可哀そうな菊さん、可哀そうに」

まったく意識しない呟きであった。こんども自分でびっくりしたが、その刹那にありありと思いだした。それは母の言葉であった。母が亡くなるとき、菊千代の手を握って、涙をこぼしながらいった言葉である。

――お可哀そうに、菊さん、お可哀そうに。

菊千代は危うく呻きそうになった。