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きくづきよ
菊月夜
山本 周五郎
「講談雑誌」博文館 、1944(昭和19)年10月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 16,129 字 · 32 页
「あなたは、松谷がどうなったかご存じないのですか……」
「あらましは江戸で噂を聞きました、権太夫どのが狂死して、ご家族は追放になったと、それだけは聞いています」
「それをご承知なら、もうあの約束のことは心配なさらなくとも……」
「いやそれは違いますよ」信三郎はしずかに頭を振った。「たとえ権太夫殿が狂死し遺族がご追放になったとしても、小房どのとわたくしとの約束は四年まえからのことで、それとは関係がないと思います」
「それは、そのとおりです……」母親はしずかに頷いた。「武士と武士との約束でもあり、小房どのに罪があったわけではないのですから、……お父上もわたくしもそのつもりで、ご追放と聞いたときすぐ小房どのをこちらへお引取り申すつもりでした、けれどそれがだめだったのです」
おなじ家中で納戸奉行を勤めていた松谷権太夫には、男子がなく、小房という娘がひとりいた。すぐれて美貌だというほどではなかったが、魅力のある顔だちと怜悧な気質とでなかなか評判が高かった。四年まえ、信三郎が江戸へ出ることにきまるとすぐ、小房とのあいだに縁談がまとまり、彼の任務が終って帰藩したあかつきには入婿するという約束ができたのである。