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なおこ
菜穂子
堀 辰雄
楡の家 第一部「物語の女」山本書店、1934(昭和9)年11月<br> 楡の家 第二部「文学界」1941(昭和16)年9月号<br> 菜穂子「中央公論」1941(昭和16)年3月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 88,758 字 · 173 页
圭介は下車した途端に、構内の空気の蒸し蒸ししているのに驚いた。ふいと山の療養所の肌をしめつけるような冷たさが快くよみ返って来た。彼はプラットフォームの人込みを抜けながら、何やらその前に人だかりがしているのを見ると、何んの気なしに足を駐めて掲示板を覗いた。それは今彼の乗って来た中央線の列車が一部不通になった知らせだった。それで見ると、彼の乗り合わせていた列車が通過した跡で、山峡の或鉄橋が崩壊し、次ぎの列車から嵐の中に立往生になったらしかった。
圭介はそれを知ると、何んだ、そんな事だったのかと云った顔つきで、再びプラットフォームの人込みの中を一種異様な感情を味いながら抜けて行った。こんなに沢山の人達の中で、自分だけが山から自分と一しょに附いて来た何か異常なもので心を充たされているのだと云った考えから、真直を向いて歩きながら何か一人で悲痛な気持ちにさえなっていた。しかし、彼はいま自分の心を充たしているものが、実は死の一歩手前の存在としての生の不安であるというような深い事情には思い到らなかった。
その日は、黒川圭介はどうしてもその儘大森の家へ帰って行く気がしなかった。