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かぜたちぬ
風立ちぬ
堀 辰雄
序曲、風立ちぬ「改造」1936(昭和11)年12月号、冬「文藝春秋」1937(昭和12)年1月号、春「新女苑」1937(昭和12)年4月号、死のかげの谷「新潮」1938(昭和13)年3月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 54,998 字 · 108 页
其処に夏を過ごしに来る外人たちがこの谷を称して幸福の谷と云っているとか。こんな人けの絶えた、淋しい谷の、一体どこが幸福の谷なのだろう、と私は今はどれもこれも雪に埋もれたまんま見棄てられているそう云う別荘を一つ一つ見過ごしながら、その谷を二人のあとから遅れがちに登って行くうちに、ふいとそれとは正反対の谷の名前さえ自分の口を衝いて出そうになった。私はそれを何かためらいでもするようにちょっと引っ込めかけたが、再び気を変えてとうとう口に出した。死のかげの谷。……そう、よっぽどそう云った方がこの谷には似合いそうだな、少くともこんな冬のさなか、こういうところで寂しい鰥暮らしをしようとしているおれにとっては。――と、そんな事を考え考え、漸っと私の借りる一番最後の小屋の前まで辿り着いてみると、申しわけのように小さなヴェランダの附いた、その木皮葺きの小屋のまわりには、それを取囲んだ雪の上になんだか得体の知れない足跡が一ぱい残っている。姉娘がその締め切られた小屋の中へ先きにはいって雨戸などを明けている間、私はその小さな弟からこれは兎これは栗鼠、それからこれは雉子と、それらの異様な足跡を一々教えて貰っていた。