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こくしかんさつじんじけん

黒死館殺人事件

小栗 虫太郎

「新青年」博文館、1934(昭和9)年4月号~12月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 296,741 字 · 584 页

青空文庫

恐らく二人にとれば、その刹那が、あらゆる力の無力を直感した瞬間であったろう。けれども、その法水が持ち出した、華やかに彩色濃く響の高い絵には、どうしても魅了せずにはおかない不思議な感覚があった。法水は静かに云った。

「虹……まさにそれは、革鞭のような虹でした。ですが、犯人を気取ってみたり、久我鎮子の衒学的な仮面を被けたりしている間は、それに遮られていて、あの虹を見ることが出来なかったのです。僕は心から苦難をきわめていた貴女の立場に御同情しますよ」

「では、久我さんの言を借りれば――動機変転。ねえ、そうでございましょう。でも、そんな隈取りは、もう既に洗い落してしまいましたわ。偽悪、衒学……そういう悪徳は、たしか、私には重過ぎる衣裳でしたわね」と第一日以来鬱積しきっていたものが、彼女の制御を跳ね越えて一時に放出された。伸子の身体がまるで小鹿のように弾み出して、両肱を水平に上げ、その拳を両耳の根につけて、それを左右に揺ぶりながら、喜悦に恍惚となった瞳で、彼女は宙になんという文字を書いていたことであろう。意外にも思いもよらなかった歓喜の訪れが、伸子をまったく狂気のようにしてしまったのである。