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さるすべり

さるすべり

山本 周五郎

「富士」大日本雄辯會講談社、1943(昭和18)年7月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 12,095 字 · 24 页

青空文庫

「やっぱりおまえだったな、奈保」治部介はそう云いながら女の衿をくつろげてやった。「しっかりしろ、おれだ、治部介だぞ」ああと低くうめいて女は身を起そうとした、かれは動いてはいけないと云った。「とても助かる傷ではない、云うことがあったら云え、どうして此処へ来たんだ」

「お眼にかかりたいと存じまして」

「もっとしっかり云え、なにか会う用があったのか、奈保、しっかり云うんだ」

「ひと眼、お会い申して」ほとんど聞きとれないほどの声だった、ひと眼会いたくて来たが、城を眼の前に見たらとりのぼせてしまい、みぐるしいふるまいをして申訳がない、おゆるし下さいという意味のことを云った。

「それだけか、奈保、おまえ、そんな未練者だったのか」治部介はどなりつけるように云った、しかし聞えなかったものか、女は大きく息をつきながらはっきりと呟いた。「わたくし御先途をいたします」そして眼をつむった。

治部介はもう息の絶えた妻の面を、ながいことじっと見まもっていた。良人への愛にひかされてこんな未練なことをする、そんな妻ではなかった筈だ。――なにを狼狽したんだ。そう叱りつけたかった。けれどもそのとき夜風が吹きわたり、猿滑の花がはらはらと妻の顔に散りかかるのをみて、かれはしずかに立って二の丸まで鍬を取りにいった。