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ちくしょうだに

ちくしょう谷

山本 周五郎

「別冊文藝春秋」1959(昭和34)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 69,788 字 · 138 页

青空文庫

隼人は押されながら振返った。十五六間うしろの断崖の中腹に、人の姿がちらっと見えた。なにかをかぶった頭と、二の矢を持った右手が見えただけで、それは向うへとびおりでもするように、さっと岩蔭に消えてしまった。

「大丈夫だ、もう大丈夫だ」

あやは両手で隼人にしがみついたまま、歯の音がするほど激しくふるえていた。隼人は手を放そうとしたが、娘の手指は関節が硬ばっていて、殆んど一本ずつ指をひらかなければならなかった。

「さあゆこう」隼人は歩きだしながら訊いた、「いまのは本当に権八だったのか」

あやはまだふるえていた、「そうだと思います」

「はっきり見えたのか」

「いいえ」と娘はかぶりを振った、「弓を射ようとするところを見ただけです、でも、――権八のほかにあんなことをする者はいないと思います」

隼人は墓土に突き立っている矢を抜き取り、それを持って、あやといっしょに正内老人の住居へいった。

老人は枸杞の茶というのを淹れ、もろこしの薄焼を作ってくれた。枸杞の茶というのはひなた臭く、隼人の口にはなじまなかったし、薄焼にも手を出す気にはなれなかった――あやが墓地であった事を話すと、炉端の向うで、岡村七郎兵衛が「どうです、云ったとおりでしょう」