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ふたつのみち

二つの途

豊島 与志雄

「新小説」1920(大正9)年5月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 51,102 字 · 104 页

青空文庫

それから彼女は急に立ち上って、低い声で云った。

「私もうあちらへ参りますわ。」

木下は思わず椅子から立ち上った。彼女は足を止めた。二人は釘付にされたように一寸立ち竦んだ。それから彼女は一歩ずつゆるやかに足を運んで、次に足を早めて、室から出て行った。

木下は暫く其処に立ちつくしていた。憤激とも喜悦とも悲哀ともつかない云い知れぬ感情に、彼は胸を震わした。彼は倒れるように椅子に腰を落して、描きかけの画面を眺めた。「君の心の中に在るものが君の製作を裏切るのだ、」と云った岡部の言葉を思い出した。彼は身のまわりを見廻した。それから室の中を見廻した。信子の息吹きが至る所にあった。棚の上の石膏像には少しの埃もかかっていなかった。室の隅の筆洗盤は綺麗に磨かれていた。釘に吊してある外套の裾には少しの泥もこびりついていなかった。床は心地よく掃除されていた。花瓶には梅の枝が※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)されていた。書物は棚の片隅に並べてあった。絵筆拭きの布が釘に下って乾いていた。煖炉の灰がすっかり取去られて水が適度に入れてあった。