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ふたつのみち

二つの途

豊島 与志雄

「新小説」1920(大正9)年5月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 51,102 字 · 104 页

青空文庫

との一言だった。「互に愛してくれ、」との一言だった。而も、僅かにではあり、一言ではあったが、それが彼の胸をぐさりとつき刺していた。名状し難い悲痛な感情が、苦痛が、其処から黒い血のように湧き出してきた。――信子も彼の眼には、二つの姿となって映じていた。一つは、愛する女性として。……彼女の瞳、彼女の香り、眼を閉じてよりかかって来た彼女の心、それらは彼の胸の底まで泌み通っていた。而もその傍には、単なる一女性が立っていた。恋の対象として「彼女でなければならない。」ということを、今の場合になって、右か左かの分岐点に立って、彼ははっきり感じなかった。凡てが必然さを以て彼の頭にぴたりと来なかった。多くの罪をも踏み越して愛した信子が、ただ「女性」のうちの偶然の一人であろうとは、彼は今迄夢にも思わなかった。而もそれは、彼の心を益々信子に愛着させるのであった。偶然であるがために、必然の繋りがないために、今別れることは永久に失うことであった。彼は殆んど解く術のない矛盾に迷い込んだ。――憂悶の辺際に追い込まれた彼は、凡てを一つにまとめることが出来なかった。分離した二つの岡部、分離した二つの信子、それらに対する苦しい考え、それらが或は絡まり或は孤立して、彼を陰惨な渦巻きの底へ誘って行った。