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いまどしんじゅう
今戸心中
広津 柳浪
「文芸倶楽部」1896(明治29)年7月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,688 字 · 74 页
八
善吉は漱をしながらうなずく。初緑らの一群は声高に戯れながら去ッてしまッた。
「吉里さん、吉里さん」と、呼んだ声が聞えた。善吉は顔を水にしながら声のした方を見ると、裏梯子の下のところに、吉里が小万と話をしていた。善吉はしばらく見つめていた。善吉が顔を洗い了ッた時、小万と吉里が二階の廊下を話しながら行くのが見えた。
八
桶には豆腐の煮える音がして盛んに湯気が発ッている。能代の膳には、徳利が袴をはいて、児戯みたいな香味の皿と、木皿に散蓮華が添えて置いてあッて、猪口の黄金水には、桜花の弁が二枚散ッた画と、端に吉里と仮名で書いたのが、浮いているかのように見える。
膳と斜めに、ぼんやり箪笥にもたれている吉里に対い、うまくもない酒と太刀打ちをしているのは善吉である。吉里は時々伏目に善吉を見るばかりで、酌一つしてやらない。お熊は何か心願の筋があるとやらにて、二三の花魁の代参を兼ね、浅草の観世音へ朝参りに行ッてしまッた。善吉のてれ加減、わずかに溜息をつき得るのみである。
「吉里さん、いかがです。一杯受けてもらいたいものですな。こうして飲んでいたッて――一人で飲むという奴は、どうも淋しくッて、何だか飲んでるような気がしなくッていけないものだ。