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いりえのほとり

入江のほとり

正宗 白鳥

「太陽」1915(大正4)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 25,430 字 · 50 页

青空文庫

そして、裾の短い寝衣のままランプを持って階下へ下りて行った。行灯の火は今にも消えそうに揺めいていた。彼れは父の部屋や兄の部屋には年に一度足を入れることがあるかないかで、部屋の様子がどうなっているか知らなかった。

音のせぬように襖を開けて入ると、子供の時分から見馴れていた赤毛氈を掛けた机が、以前のとおりに壁ぎわに据えられてあった。机の上には大きな硯や厚い帳簿や筆立や算盤がごたごたといっぱいに置かれてあった。新聞に蔽われている碧い薬瓶を捜しだしながら、彼れはふと大谷円三という封筒の文字に目を留めた。母が先日問わず語りに言っていた縁談の周旋者の名前が大谷だったので、彼れは封筒を取上げて覗いたが、手紙を引きだして読もうとはしないで、元の処に置いた。そして、柱に掛った寒暖計を見て、「三十五度か、寒いわけだ」と思いながら部屋を出た。どの部屋からも安らかな寝息が洩れていて一人も目醒めていなかった。ガランとした家の中には寒い風が流れている。

勝代は待ちかねた薬瓶を兄から渡されると、すぐに手の平に薬を移して、「このくらいの分量で利くじゃろうか」と兄に訊いた。

「そんな薬は毒にもならん代り利きやせん」