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めいじんじごく

名人地獄

国枝 史郎

「サンデー毎日」1925(大正14)年7月5日~10月25日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 149,286 字 · 301 页

青空文庫

江戸を飾っていた桜の花が「ひとよさに桜はささらほさらかな」と、奇矯な俳人が咏んだように、一夜の嵐に散ってからは、世は次第に夏に入った。苗売り、金魚売り、虫売りの声々、カタンカタンという定斎屋の音、腹を見せて飛ぶ若い燕の、健康そうな啼き声などにも、万物生々たるこの季節の、清々しい呼吸が感ぜられた。春にだらけた人々の心も、一時ピンとひきしまり、溌溂たる元気をとりかえしたが一人寂しいのは平八老人で、この時までも鼓の音を、耳にすることが出来なかった。そもそも鼓はどこにあるのであろう? 二度と再びあの鼓は、美妙な音色を立てないのであろうか?

いやいや決してそうではない。鼓はこの時も鳴っていたのであった。思いも及ばない辺鄙の土地、四時煙りを噴くという、浅間の山の麓の里、追分節の発生地、追分駅路のある旅籠屋で、ポンポン、ポンポンと美しく、同じ音色に鳴っていたのであった。

浅間の麓追分宿

いまの地理で説明すると、長野県北佐久郡、沓掛近くの追分宿は、わずかに戸数にして五十戸ばかり、ひどくさびれた宿場であるが、徳川時代から明治初年まで、信越線の開通しないまえは、どうしてなかなか賑やかな駅路で、戸数五百遊女三百、中仙道と北国街道との、その有名な分岐点として、あまねく世間に知れていた。