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なつのはな

夏の花・心願の国

原 民喜

原民喜『夏の花・心願の国』。同一底本的分册已合并为一书。收入:夏の花、苦しく美しき夏、秋日記、冬日記、美しき死の岸に、死のなかの風景、火の唇、壊滅の序曲、廃墟から、鎮魂歌、永遠のみどり。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 152,816 字 · 310 页

青空文庫

約束の日は今日だった。日が暮れかかる頃、漸く二階の一室が譲渡された。その時から、彼はその二階の一室を貸してもらったのだが。……揺れ返るものは絶えずその部屋を包囲していた。襖と廊下を隔てて向側にある事務所は電話の叫喚と足音に入り乱れ、人間が人間を捻じ伏せたり、人間が人間を撫でまくる、さまざまのアクセントを放つ。男も女もそれは一塊りの声であり、バラバラの音響なのだ。彼と何のかかわりもない、それらの一群が夕方退去すると、今度は灯の消えた廊下を鼠の一群が跳梁する。それから、彼が外食に出掛けたり、近所にある雑誌社に立寄ると、街が、活字が、音楽が、何かが何かを煽り、何かが何かと交錯して来た。

そのビルの一室に移ってから、彼はあの淋しげな女とよく出逢うようになっていた。女の勤先があまり遠くない所にあるのも彼には分った。電車通りから少し外れると、人通りの少い静かな道路がある。時々、そんな路を女はふらりと歩いていることがあった。路でばったりと彼と出逢うと、女はすぐ人懐そうに彼に従いて歩いた。

「お忙しいでしょう、失礼します」

女は曲角ですらりと離れる。それからお辞儀をして、小刻に歩いて行く。