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なつのはな
夏の花・心願の国
原 民喜
原民喜『夏の花・心願の国』。同一底本的分册已合并为一书。收入:夏の花、苦しく美しき夏、秋日記、冬日記、美しき死の岸に、死のなかの風景、火の唇、壊滅の序曲、廃墟から、鎮魂歌、永遠のみどり。
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 152,816 字 · 310 页
永遠のみどり
梢をふり仰ぐと、嫩葉のふくらみに優しいものがチラつくようだった。樹木が、春さきの樹木の姿が、彼をかすかに慰めていた。吉祥寺の下宿へ移ってからは、人は稀れにしか訪ねて来なかった。彼は一週間も十日も殆ど人間と会話をする機会がなかった。外に出て、煙草を買うとき、「タバコを下さい」という。喫茶店に入って、「コーヒー」と註文する。日に言語を発するのは、二ことか三ことであった。だが、そのかわり、声にならない無数の言葉は、絶えず彼のまわりを渦巻いていた。
水道道路のガード近くの叢に、白い小犬の死骸がころがっていた。春さきの陽を受けて安らかにのびのびと睡っているような恰好だった。誰にも知られず誰にも顧みられず、あのように静かに死ねるものなら……彼は散歩の途中、いつまでも野晒しになっている小さな死骸を、しみじみと眺めるのだった。これは、彼の記憶に灼きつけられている人間の惨死図とは、まるで違う表情なのだ。
「これからさき、これからさき、あの男はどうして生きて行くのだろう」――彼は年少の友人達にそんな噂をされていた。それは彼が神田の出版屋の一室を立退くことになっていて、行先がまだ決まらず、一切が宙に迷っている頃のことだった。