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ふじ

富士

岡本 かの子

「文芸」1940(昭和15)年11月号~1941(昭和16)年4月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 40,579 字 · 82 页

青空文庫

その日はやはり「この大根、嫁かずであれ、――今に」といって駆去った男が、その翌日、何にも獣は持たずに水のほとりに来た。女を見ると、矢庭に弓矢を女に向けて張った。男はこの頃の興奮と思い悩みに、いたく痩せ衰え、逞しい胸で息せき切っている。かくしてもまだ口ではいい出せず、弓矢をもって代弁させなければならない、荒い男の高ぶった憶しごころを女ははじめて憐れとみた。

女は、手で止め、ふと思い付き

「朝な朝なこの水に湧く、湧く玉の数を、数え尽しなさったら」

寂しく笑いながらいった。男は弓矢をそこに抛り出し、ぐずぐずと水のほとりに坐した。

富士が生ける証拠に、その鼓動、脈搏を形に於て示すものはたくさんあるが、この湧玉の水もその一つであった。朝日がひむがしの海より出で、山の小額を薔薇色に染めかけるとき、この水の底から湧く泡の玉は特に数が多い。夜中に籠れる歇気を吐くのであろうか、夜中に凝る乳を粒立たすのであろうか、とにかく、この湧玉をみて、そして峯を仰ぐとき、確に山の眼覚めを思わせる。泡の玉は暗い水底より早昧そのものの色である浅黄色の中に、粒白の玉として生れ出で、途中真珠の色に染め做されつつ浮き泡となり水面に踊って散り失す。