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あるおんな
或る女
有島 武郎
1(前編)
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 149,981 字 · 295 页
陸の影はいつのまにか船のどの舷からもながめる事はできなくなっていた。背羽根の灰色な腹の白い海鳥が、時々思い出したようにさびしい声でなきながら、船の周囲を群れ飛ぶほかには、生き物の影とては見る事もできないようになっていた。重い冷たい潮霧が野火の煙のように濛々と南に走って、それが秋らしい狭霧となって、船体を包むかと思うと、たちまちからっと晴れた青空を船に残して消えて行ったりした。格別の風もないのに海面は色濃く波打ち騒いだ。三日目からは船の中に盛んにスティームが通り始めた。
葉子はこの三日というもの、一度も食堂に出ずに船室にばかり閉じこもっていた。船に酔ったからではない。始めて遠い航海を試みる葉子にしては、それが不思議なくらいたやすい旅だった。ふだん以上に食欲さえ増していた。神経に強い刺激が与えられて、とかく鬱結しやすかった血液も濃く重たいなりにもなめらかに血管の中を循環し、海から来る一種の力がからだのすみずみまで行きわたって、うずうずするほどな活力を感じさせた。もらし所のないその活気が運動もせずにいる葉子のからだから心に伝わって、一種の悒鬱に変わるようにさえ思えた。