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しゃよう
斜陽
「新潮 第四十四巻第七号~第十号」1947(昭和22)年7月1日~1947(昭和22)年10月1日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 89,822 字 · 176 页
僕は立ち上って、
「それでは、おいとま致します」
そのひとも立ち上って、何の警戒も無く、僕の傍に歩み寄って、僕の顔を見上げ、
「なぜ?」
と普通の音声で言い、本当に不審のように少し小首をかしげて、しばらく僕の眼を見つづけていました。そうして、そのひとの眼に、何の邪心も虚飾も無く、僕は女のひとと視線が合えば、うろたえて視線をはずしてしまうたちなのですが、その時だけは、みじんも含羞を感じないで、二人の顔が一尺くらいの間隔で、六十秒もそれ以上もとてもいい気持で、そのひとの瞳を見つめて、それからつい微笑んでしまって、
「でも、……」
「すぐ帰りますわよ」
と、やはり、まじめな顔をして言います。
正直、とは、こんな感じの表情を言うのではないかしら、とふと思いました。それは修身教科書くさい、いかめしい徳ではなくて、正直という言葉で表現せられた本来の徳は、こんな可愛らしいものではなかったのかしら、と考えました。
「またまいります」
「そう」
はじめから終りまで、すべてみな何でもない会話です。僕が、或る夏の日の午後、その洋画家のアパートをたずねて行って、洋画家は不在で、けれどもすぐ帰る筈ですから、おあがりになってお待ちになったら? という奥さんの言葉に従って、部屋にあがって、三十分ばかり雑誌など読んで、帰って来そうも無かったから