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くわのきものがたり

桑の木物語

山本 周五郎

「キング」大日本雄辯會講談社、1949(昭和24)年11月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 39,815 字 · 79 页

青空文庫

しかし悠二郎だけはそういうばあいでも宿直より遠くへは決してさがらなかった。……正篤も諄く「さがれ」とは云わなかった。二人きりになれば舟仙を中心にした話ができる、そのときだけは気が紛れるらしい、声をだして笑うことさえしばしばあった。

「あの話には驚いた、とうてい本当とは思えなかった」

あるとき正篤はふと思いだしたというふうに、こう云って笑いながらこっちを見た。どうも顔の一点をじろじろ見て笑うので、悠二郎は例の如くてれて、なんの話ですかときいた。正篤は自分の鼻を指さした。

「おまえの鼻の穴がどうしてそんなに大きくなったかという話さ、おつねにすっかり聞いたんだよ」

「えっ、ああ――ああそればかりは」

「そればかりはと云ったって本当なんだろう」

「覚えがないんです」悠二郎は赤くなり、むきになって弁明した、「――ぜんぜんです、自分ではこれっぽっちも覚えのないことなんです。これだけは誰にも話さない約束だったんですが、……ひどいやつだ」

正篤は笑って、そして激しく咳きいった。

だが、こういう会話はだんだん少なくなり、正篤のようすは日の経つにしたがって憂鬱の色を増した。悠二郎の話を聞いて笑っても、それが心からの笑いでないことがわかる。