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さくらのみのじゅくするとき
桜の実の熟する時
島崎 藤村
「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页
俺も黙って聞いてはおられんじゃないかや。『おあき(嫂の名)、心配するない、俺が東京へ行って見て来るで』――そう言って、急に思い立って来たわのい。寒い日だったぞや。国を出る時はもうお前、霜が真白。峠の吉右衛門も心配して、『姉さま、こんな日に行かっせるかなし、名古屋まで用があるで、そいじゃ途中まで送って行って遣らず』――そう言って、吉右衛門が送って来てくれた。まあ俺も出て来て見て、これで漸と安心した。おあきを兄さまに渡すまでは、俺の役目が済まないで。どうしてお前、国でも皆な一生懸命よのい、俺もお前達のために神様へ願掛けして、どうかして兄さまもよくやって下さるように、捨吉も無事で居りますように、毎日そう言って拝んでいる。どんなに心配しているか知れないぞや……」
眼前の事物にほとほと興味を失いかけていた捨吉がお母さんの話を聞いて見た時の心持は、所詮説明すことの出来ないものであった。唯それは感じ得られるような性質のものであった。そしてそれを感ずれば感ずるほど、余計にすべてが心に驚かれることばかりのようであった。はかない少年の夢が破れて行った日から、彼は殆んど自分一人に生きようとした。