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さくらのみのじゅくするとき

桜の実の熟する時

島崎 藤村

「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页

青空文庫

寂しい暗い道を黙し勝ちに辿って来た。彼は曽て自分が基督教会で洗礼を受けたということまで、このお母さんに告げ知らせようともしなかった。これほど自分のために心配していてくれるお母さんのような人があることさえも忘れ勝ちに暮して来た。

何年も捨吉が思出さなかった可懐しい国の言葉の訛や、忘れていた人達の名前が、お母さんの口から引継ぎ引継ぎ出て来た。お母さんは捨吉から送った写真のことを言出して、

「あの写真をよこしてくれた時は、皆大騒ぎよのい。吉田屋の姉さま、おりつ小母さままで来てて、『あれ、これが捨様かなし、そいったってもまあ、こんなに大きく成らっせいたかなし』なんてそう仰ッせて……」

少年の時分からよく見覚えのある、お母さんの左の眼の上の大きな黒子。それを見ていると、どうかすると捨吉はお母さんの話すことを聞いていながら、心は遠く故郷の山林の方へ行った。彼の心は何年となく思出しもしなかった遠い山のかなたに狐火の燃える子供の時の空の方へ帰って行った。山には狼の話が残り、畠には狢や狸が顕われ、禽獣の世界と接近していたような不思議な山村の生活の方へ帰って行った。あかあかと燃える焚火の側で、焼きたての熱い蕎麦餅に大根おろしを添えて、皆なで一緒に食う事を楽みにした広い炉辺の方へ帰って行った。