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さくらのみのじゅくするとき
桜の実の熟する時
島崎 藤村
「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页
荒布橋を渡り、江戸橋を渡った。通い慣れた市街の中でもその辺は殊に彼が好きで歩いて行く道だ、鎧橋の方から掘割を流れて来る潮、往来する荷船、河岸に光る土蔵の壁なぞは、何時眺めて通っても飽きないものであった。いつでも彼が学校へ急ごうとする場合には、小父さんの家からその辺まで歩いて、それから鉄道馬車の通う日本橋の畔へ出るか、さもなければ人形町から小伝馬町の方へ廻って、そこで品川通いのがた馬車を待つかした。その日は何にも乗らずに学校まで歩くことにして、日本橋の通りへかからずに、長い本材木町の平坦な道を真直に取って行った。
何時にない心持が捨吉の胸に浮んで来た。子供心にも東京に遊学することを楽みにして遠く郷里から出て来た日のことが、生れて初めて大都会を見た日のことが、中仙道を乗って来た乗合馬車が万世橋の畔に着いた日のことが、他にも眼の療治のために上京する少年があって一緒に兄に連れられてその乗合馬車を下りた日のことが、あの広小路で馬車の停ったところにあった並木から、寄席や旅籠屋なぞの近くにあった光景までが、実にありありと捨吉の胸に浮んで来た。
京橋から銀座の通りへかけて、あの辺は捨吉が昔よく遊び廻った場処だ。