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さくらのみのじゅくするとき
桜の実の熟する時
島崎 藤村
「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页
十年の月日はまだ銀座の通りにある円柱と円窓とを按排した古風な煉瓦造の二階建の家屋を変えなかった。あらかた柳の葉の落ちた並木の間を通して、下手な蒔絵を見るように塗られた二人乗の俥の揺られて行くのも目につく。塵埃を蹴立て喇叭の音をさせて、けたたましく通過ぎる品川通いのがた馬車もある。四丁目の角の大時計でも、縁日の夜店が出る片側の町でも、捨吉が旧い記憶に繋がっていないところは無かった。捨吉は昔自分が育てられた町のあたりを歩いて通って見る気になった。ある小路について、丁度銀座の裏側にあたる横町へ出た。そこに鼈甲屋の看板が出ていた筈だ。ここに時計屋が仕事をしていた筈だと見て行くと、往来に接して窓に鉄の格子の箝った黒い土蔵造の家がある。入口の格子戸の模様はやや改められ、そこに知らない名前の表札が掛け変えられたのみで、その他は殆んど昔のままにある。その窓の鉄の格子は昔捨吉が朝に晩に行ってよくつかまったところだ。その窓から明りの射し入る三畳ばかりの玄関の小部屋は昔自分の机を置き本箱を並べたところだ。彼は自分の少年の日を見る心地がして、最早住む人の変った以前の田辺の家の前を通った。