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さくらのみのじゅくするとき
桜の実の熟する時
島崎 藤村
「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页
捨吉も玄関の方から自分の机を持寄って皆なと一緒に多くの長い夜を送った。その頃の小父さんは厳しい立派な髯を生した人で、何度も何度も受けてはうまく行かなかった代言人の試験にもう一度応じて見ると言って、捨吉の机の前へ法律の書なぞを持って来たものだ。そしてその書を捨吉に開けさせて置いて、それはこうですとか、ああですとか、自分で答えて見て、よく捨吉を試験掛に見立てたものだ。
奥の下座敷も捨吉の眼に浮んだ。そこには敷きづめに敷いてあるような姉さんの寝床がある。その座敷の縁先にタタキの池がある。長い優美な尻尾を引きながら青い藻の中に見え隠れする金魚の群がある。姉さんも気分の好い時にはその縁先に出て、飼われている魚のさまなぞを眺めては病を慰めたものだ。
その頃の小父さんは実に骨の折れる苦しい時代にあった。郷里からの送金もとかく不規則でそれを気の毒に思っていた捨吉には、何処までが小父さんの艱難で、何処までが自分の艱難であるのか、その差別もつけかねる位であった。雨の降る日に満足な傘をさして学校へ通ったことも無い位だ。
ある日、古い道具を売払おうとして土蔵の二階でゴトゴト言わせている小父さんを見つけて、捨吉は自分が三度食べるものを二度に減らしたら、それでも何かの助けになろうかと考えたことさえあった。