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さくらのみのじゅくするとき

桜の実の熟する時

島崎 藤村

「文章世界」1913(大正2)年1~2月、1914(大正3)年5月~1918(大正7)年6月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 111,569 字 · 222 页

青空文庫

と言えば大分その道の人に顔を知られるように成ったのである。この恩人が骨の折れた苦しい時代から少年の身を寄せ、親戚では無いまでも主人のことを小父さんと呼び、細君のことを姉さんと呼び(細君を小母さんと言うにはあまりに若く、それほど主人と年が違っていたから)そんな風に殆んど家族のものも同様にして捨吉は育って来た。田辺の家の昔に比べると、今はすべての事が皆の思い通りに進みつつある。それが捨吉にも想像される。人形町の賑かな通を歩いて行って、やがて彼は久松橋の畔へ出た。町中を流れる黒ずんだ水が見える。空樽を担いで陸から荷舟へ通う人が見える。竈河岸に添うて斜に樽屋の店も見える。何もかも捨吉に取っては親しみの深いものばかりだ。明治座は閉っている頃で、軒を並べた芝居茶屋まで夏季らしくひっそりとしていた。

そこまで行くと田辺の家は近かった。表の竹がこいの垣が結い換えられ、下町風の入口の門まですっかり新しく成ったのが先ず捨吉の心を引いた。

年はとっても意気の熾んなお婆さんを始め、主人、細君は風通しの好い奥座敷に一緒に集っていて、例のように捨吉を迎えてくれた。お婆さんが灰色の髪を後へ切下げるようにして、何となく隠居らしく成ったのも捨吉にはめずらしかった。